音楽室
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音楽室 ORIGINAL LOVE ”夢を見る人”

 

”夢を見る人”を収録したアルバム、”RAINBOW RACE”は、1995年にリリースされた。

 

ORIGINAL LOVEと言えば、名曲”接吻”の大ヒットで知っている人も多いかと思うが、”RAINBOW RACE”は、良い意味でも悪い意味でもORIGINAL LOVEの転換点となった作品だった。

 

と言うのも、この作品を最後に、木原龍太郎さん(キーボード)、小松秀行さん(ベース)、佐野康夫さん(ドラム)という主力メンバーが脱退し、以後の作品は、田島貴男さん(ボーカル、ギター)の個人プロジェクトのような感じで、それまでのジャジーでキャッチーな路線とは違ったものになっていったからである。

 

個人的には、初期のORIGINAL LOVE、というか田島貴男さんは、自分の音楽的嗜好に決定的な影響を与え、高校生の頃にその後にジャズを聴くようになるための素地を作ってくれた人で、いまだに「さん」を付けないとどうにもしっくり来ないような、尊敬してやまない存在である。

 

そんな、田島さんを尊敬してやまない人間なので、「田島貴男の何が良いのか」と聞かれても、「全てが最高で何もかもが良い」というのが率直なところなのだが、自分なりに思っていることを書くと、実は、田島さんの書く詩があまりにも良いのである。

「しなやかに風は 君の髪をとかし 誰も知らない場所へと 吹きぬけてく

ああ しなやかに風は 僕のなかをぬけて 誰も知らない場所へと ただ吹きぬけ 願いをかなえる」

これは”二つの手のように”の歌詞だが、聴いていると、まるで実際に目の前に夏の夕暮れの海辺が広がっているような、そんな感覚になる。

「誰も知らない場所」と言っているが、二人がいる場所は、当然二人にとってはどこなのか知っている場所であるし、この世に「誰も知らない場所」というのは基本的に無い。

 

とすると、「誰も知らない場所」とは何なのか。おそらく物理的なものではなく、二人の記憶の中ということになろうか。

 

 

これは”砂の花”という曲で、もう曲名が既に十分に詩的なのだが、「最初の恋のように 振るまえたらいい ただの奇跡さ」という歌詞が出てくる。

 

この一節で何が良いのかというと、「ただの」と「奇跡」というのは本来結び付かないものなのに、それをサラッと組み合わせてしまっている。こういう詩は、論理的に突き詰めて考えても絶対に思いつけない類のもので、もう、田島さんの天才的なセンスの発露としか言いようがない。

 

さて、それなら、”夢を見る人”はどうであろうか。

 

”RAINBOW RACE”というアルバム名を直訳すると、「虹を追いかける競争(あるいは、虹を追いかける種族・民)」という程度の意味になるのだろうが、”夢を見る人”の歌詞は、このアルバム名、つまりこの作品のテーマとつながっている。

 

現代思想的に言うと、今の社会というのは、個人の存在意義、自己同一性などといった、哲学において当たり前のものとされていたものが失われた社会である。要は、例えば、江戸時代ならどこどこ村のだれ兵衛さんは、百姓の家に生まれたなら百姓をすれば良いし、商人の家に生まれたなら商人をすれば良くて、そうすることを周囲の人間も期待したし、そうすることで社会から「自分らしさ」を与えられ、自分の存在を強く社会に定義づけし、充足感に満たされたわけである。

 

しかし、現代社会ではそれが失われた。人は「(実際はお金と才能にも影響されるが、少なくとも社会から何かを強制・期待されないという意味で)何にでもなれる、どこにでも行ける」自由を手にした代わりに、「自分らしさ」とは何なのだろうか、自分はどう生きるべきなのだろうか、という精神的な迷路に入り込んだ。社会と個人のつながりが薄れ、「自分の定義づけ」、「他者から見た自分」の発見が困難になった。

 

そのような社会において、人はどう生きるべきなのか。そこでのひとつの答えが、”RAINBOW RACE”なのである。

 

他者から存在意義を与えてもらうことができないのなら、自分で夢を追い続け、それを存在意義にするしかない。他者から期待されるものではなく、いわば「自分にとってだけ価値があるもの」を追いかけ、自己充足・自給自足するのである。

 

”夢を見る人”の歌詞を見てみよう。

 

「街に神話を忘れた僕等は探す 心は雲のようにかたちをかえる」

 

神話=社会からもたらされる定義づけが失われ、自分という個が曖昧になる。そこで、夢を追いかけ、見続けるしかなくなる。

 

「新しい物語 こころに描けば チケットなしでいい」

「出かけよう 荷物はいらない 何も教えられていない子供のように」

 

人が夢を追いかける時、それはつまり、社会の束縛から離れることを意味する。社会の庇護を捨てる代わりに、自由になる。ゆえに、社会とのつながり、経済性・交換価値の表象であるチケットも荷物も不要になる。

 

虹は、夢の象徴である。人は昔から虹を見て自らの幸運を信じ、願いを託した。そして、いつか虹をつかむことができれば、夢はかなうと。

 

しかし、それは決して実現しない。虹はどこまでどこまでも離れていく。虹を追いかける者は、ほとんどの場合、最後にはすべてを失うことになるだろう。

 

それでも人は、いつか虹をつかめると信じ、競争していく。

 

この”夢を見る人”の詩に、結末は書かれていない。ただ、夢を追おうとしている。しかし、その詩を読む我々は、その先の結末を予感する。

 

その詩は、さわやかであり、物悲しく、破滅的であり、美しい。

 

1995年に”RAINBOW RACE”がリリースされた時、東京中の大手CDショップのウインドウを、鳥の群れの中で踊る女性の写真が埋め尽くした。

 

”接吻”で高まった人気は、ここで爆発し、ORIGINAL LOVEはミスチルなどと同じような地位まで上がるはずだった。

 

しかし、この作品は、それまでのキャッチ―な路線とは明らかに異なっており、賛否両論となって、多くのライトなファン層は落胆し、サッと離れていった。

 

私も、楽しみにしていた”RAINBOW RACE”を初めて聴いた時、田島さんがどうしてこの時期にこういう作品を作ったのか理解しかねたし、ファンの1人として、ORIGINAL LOVEがミリオンセラーを連発するようなチャンスを自ら手放したことに複雑な想いを抱いた。

 

しかし、その後、何度も何度も、それこそ数百回と”RAINBOW RACE”を聴いた末に出した結論は、「この作品は紛れもなく傑作だ」という評価だった。

 

この作品が世に送り出されて、既に25年が経った。その間、多くのジャズを聴き、歴史的な名演と言われる演奏を聴いてきた。

 

それでもなお、私はたまにこのアルバムを引っ張り出してきて聴いているのである。

この、力強く、土ぼこりの匂いがする”ブロンコ”という曲から始まる作品は、あきれるほどに傑出し、形容しがたいほどに美しい。

 

-住吉-